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大将の器とは・・・「夷陵の戦い」

 

三国志の英雄は皆それぞれ大将の器を持っていますが、本日は孫権について述べたいと思います。
それは、蜀呉の命運を分けた大戦である「夷陵の戦い」での一幕です。

 


1大将の器孫権

孫権は曹操・劉備と比べると「陣頭指揮を執り、戦を操る」というイメージがありません。
三国志の中では、ちょっと地味で引き立て役に移ってしまう孫呉ではありますが、ここ一番の戦では勝利を収めているのを見ると、

人を見る目に長け、マネジメントが絶妙だったのでしょう。
赤壁の戦いでは周瑜を大都督に任命し、劉備と組んで曹操を撃破。

 

そして夷陵の戦いでは、陸遜を大都督に任命し、劉備を撃破しています。
この2つの戦いは両方とも負けたら即、呉の滅亡に繋がっていた戦です。

 

滅亡に繋がる戦いに君主自らが参戦しなかったのは、孫権だけです。
赤壁の戦いでは、曹操も劉備も加わり、夷陵の戦いも劉備自らが指揮を執った戦です。

決断

2孫権が即位した背景

そもそも呉は、父孫堅が土台を築き、続いて江東の小覇王と恐れられた兄孫策が強いリーダーシップで部下をまとめ上げました。
孫策はせっかちで短気な性格が災いし、早死にしてしまいます。
それにより、孫堅はわずか19歳にして君主となりました。
重臣の心は孫堅や孫策に向いており、3代目としてこの重臣をまとめ上げるのは相当大変だったはず。
国が孫権派と周瑜派に分かれるのでは……と。(この点については後日また取り上げます。)
そのような立場から、「人を上手に活用し、国をまとめ上げる」という方策に打って出たのかもしれません。
孫権は旧臣の扱いに苦しみながらも、彼らを引き立て、時には自らが影のように潜みつつ、我慢しながらも国を治めていきます。
先の周瑜・陸遜をはじめ、魯粛や張昭、呂蒙などたくさんの良臣の活躍が目立つのも呉の大きな特徴かもしれません。

 

3夷陵の戦いでの決断

ここで「夷陵の戦い」について話題を移そうと思います。
この戦いは、「張飛と関羽を失った劉備が怒り狂って、呉を打たんと自ら国を挙げて攻め込んできた戦い」です
まさに関ヶ原の合戦と言っても過言ではない「天下分け目」の大戦です。
呉全体が震え上がり、まさに風前の灯火の状態で孫権が決断したのは・・・・
呉の敗北を予告し、人心を乱した罪で牢獄に繋がれた陸遜を大都督に任命する事でした。
なぜ、そんな国の存亡にかかわる状況で逆転決断を下したのか。
陸遜が戦況を判断できる人物と見越したからと言われます。
しかし、孫堅・孫策時代から仕える老臣や旧臣が多く、若くて書生の一人にすぎない陸遜の指示を聞く者はいないとされていました。
そこで、孫権は陸遜が大都督として戦いやすいような土台作りをします。
果たしてそれは……。

 

 

次回のブログにて書きます。

陸遜を大都督に任命し、それがどんな事があろうと決して迷わず、最後の最後まで陸遜を信じることを貫き通す。

そんな孫権の覚悟がこの戦に勝利したのかもしれません。

陸遜孫権

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